親鸞会法論惨敗の記録2〜飛雲より

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zoom RSS 「嘘も百回言えば真実になる」と信じ切っている親鸞会

<<   作成日時 : 2013/05/13 19:51   >>

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O講師のブログは、他の意見を理解しようという気も更々なく、高森邪義をひたすら書き続ける日々です。mixiでのこうへい氏と同じです。



善についても、念仏についても、言葉の定義、意味から間違っていますので、ボタンの掛け違いどころか、ボタンを別の服に掛けようとしているようなものです。話になりません。
親鸞会では



十方衆生」=「唯除五逆誹謗正法
一切衆生必堕無間



という結論があって、それにあわせて聖教を解釈するから、論理が破綻しているのです。しかし思考停止状態では、破綻していないように思えるのでしょう。



親鸞会では、間違ったことも繰り返し言い続けていれば、「嘘も百回言えば真実になる」と信じ切っているのです。mixiでのこうへい氏もそうでした。私が過去に述べたことは、



「親鸞会の邪義を正す」
十方衆生≠極重の悪人



にまとめてあります。



O講師は

浄土真宗の親鸞学徒で、また学者で



「善根薄少にして
 三界に流転して火宅を出でず」



を善ができる証拠だということ自体、
仏法のイロハも分かっていない証拠だ。

と書いていますが、どうしても「善根薄少」=「無善根」としたいようです。これは教学ではなく日本語の問題です。高森会長以外の書籍を読んだことがないのに、学者の説を知っているような嘘を付くのは悪です。



報土往生・化土往生・必堕無間と二種深信との関係



のところで、法然上人のお言葉も紹介しています。「念仏往生義」

善根無ければ、此の念仏を修して、無常の功徳を、得んとす。余の善根、多くば、例え念仏せずとも、頼む方も、有るべし。然れば善導は、我が身をば、善根薄少なりと信じて、本願を頼み、念仏をせよと、勧め給ヘリ。経に、一度名号を、称えるに、大利を得とす。又即ち、無上の功徳を得と、とけり。いかに況や、念々相続せんをや。然れば善根無ければとて、念仏往生を、疑うべからず。

善根がないと自覚しているなら、念仏を勧めるべきなのに、善ができないと知らされるまで善をせよと勧めるデタラメが、いつのまにかダム建設を肯定する愚行になるのです。大体、

宿善とは宿世の善根

と定義しているなら、無善根の十方衆生は無宿善の人しかいないということでしょう。この矛盾も理解できないでしょうね。



二種深信についても、これまで何度も何度も述べてきました。真宗教学では、二種深信の解釈は、存覚上人の『六要鈔』によっているのですが、

次に深心を釈する中に、「二者」等とは、これ経文を牒す。「深」等というは、能信の相を明かす。「亦有」等とは、所信の事を顕かす。これ則ち機法二種の信心なり。「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。「無疑」等とは、「若不生者不取正覚」、正覚既に成ず、故に無疑という。「即得往生住不退転」一念誤ることなし、故に無慮という。

も知らないでしょう。自力無功とは、無善根ではなく、出離できるような善ができない仏になれるような善ができないということです。O講師の挙げた根拠は、皆この意味です。だから、出離して仏になれる名号を阿弥陀仏が私たちのために用意して下されたと親鸞聖人が機と法をセットで仰っているのに、機の「善ができない」の部分だけを断章取義しているのです。



『教行信証』信巻の最初に

しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。 なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。

とありますが、これを『浄土文類聚鈔』では、

しかるに薄地の凡夫、底下の群生、浄信獲がたく極果証しがたし。なにをもつてのゆゑに、往相の回向によらざるがゆゑに、疑網に纏縛せらるるによるがゆゑに。いまし如来の加威力によるがゆゑに、博く大悲広慧の力によるがゆゑに、清浄真実の信心を獲るなり。この心顛倒せず、この心虚偽ならず。まことに知んぬ、無上妙果の成じがたきにはあらず、真実の浄信まことに得ること難し。真実の浄信を獲れば大慶喜心を得るなり。

と言い換えておられます。「薄地の凡夫」とは、本願寺出版の注釈では、

聖者の域に達しない下劣な者。凡夫を三種に分け、三賢(十住・十行・十回向)を内凡、十信を外凡、それ以下を薄地とする。

とありますように、凡夫といっても、「薄地の凡夫」でない凡夫もいるのです。無善根では内凡、外凡になれません。龍樹菩薩は諸善を積まれて初地まで到達せられましたが、龍樹菩薩が無善根であったなどという学者はありません。龍樹菩薩は、初地まで到達はできても仏になれるような善ができないと、浄土門に帰依されたのです。「善ができない」ではなく、「仏になれるような善ができない」です。



それを『正像末和讃』

像法のときの智人も
 自力の諸教をさしおきて
 時機相応の法なれば
 念仏門にぞいりたまふ

と仰っておられるのです。脅しと断章取義で貫かれた親鸞会には、困ったものです。
もちろん「薄地の凡夫」でも可能な限り善に努めるようにしなければなりませんが、それは往生と無関係と思ってです。



善ができないから、悪をしても仕方がないと考えている造悪無碍の親鸞会に言いたいことは、他人に善を勧める前に、まず謗法罪を止めなさい、です。


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