親鸞会法論惨敗の記録2〜飛雲より

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<<   作成日時 : 2013/05/13 20:14   >>

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「Kさん」より、先程の内容のもともとのコメントを預かりましたので、掲載しておきます。



この前にもコメントはいくつもありますが、全く無視されているそうです。過去のコメントも含めて少しずつ紹介していきます。

日本語が理解できないようですので、根拠だけを挙げておきましょう。



要門釈の最初に、

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。



(現代語訳)



さて、五濁の世の人々、煩悩に汚れた人々が、九十五種のよこしまな教えを今離れて、仏教のさまざまな法門に入ったといっても、教えにかなった真実のものははなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。
このようなわけで、釈尊は、さまざまな善を修めて浄土に往生する福徳蔵と呼ばれる教えを説いて多くの人々を誘い入れ、阿弥陀仏は、そのもととなる誓願をおこして広く迷いの人々を導いてくださるのである。

親鸞聖人は、観経の定散二善は、聖道門の修行を断念したもののために釈尊が説かれたと仰っているのが判らないのですかね。



『高僧和讃』

釈迦は要門ひらきつつ 定散諸機をこしらえて
 正雑二行方便し ひとえに専修をすすめしむ



(現代語訳)



釈尊は要門を開いて、 定善・散善の人々を浄土門に誘い、 正行と雑行とを手立てとして、 ひとえにもっぱら念仏を修することを勧められた。

「定散諸機」に対して釈尊が要門を開かれたのです。



『浄土和讃』

臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり



(現代語訳)



阿弥陀如来の第十九願の意をうけて、 釈尊は聖道自力の人を誘引するため、 諸善万行はみな浄土往生に導く善根であるとして、
『観経』一部に定善の行、 散善の行を説き、 定善に縁のある人、 散善に縁のある人に、 それぞれに自力の行による往生をお勧めくださった。

親鸞聖人は、韋提希のために定散二善を説かれたなどとどこにも仰っていないのが理解できないほど、思考力が低下しているのですか。定散諸機のために定散二善は説かれたんですよ。



それで、隠顕釈には、

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。



(現代語訳)



善導大師の解釈された意向にしたがって 観無量寿経をうかがうと、 顕彰隠密の義がある。その顕とは、 定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、 往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、 至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。 しかし、 定善・散善の二善、 世福・戒福・行福の三福は、 報土に生れるまことの因ではない。 三輩のそれぞれがおこす三心は、 それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、 他力の一心ではない。 これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、 浄土往生を願わせるために示された善である。 これが観無量寿経の表に説かれている意味であり、 すなわち顕の義である。

と仰っているのがまるっきり理解できないのでしょうね。
欣慕浄土の善根」とは、定散二善とは、浄土を願い慕わせる善、つまり聖道門の人に浄土を願わせるための善が、定散二善ということです。



これは善導大師の『散善義』深信釈を指して仰ったものです。

また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。



(現代語訳)



また釈迦仏がこの《観経》に、阿弥陀仏の依正二報を讃嘆せられて、三福・九品・定散二善の行を説かれてあるのは、衆生を誘引したもう方便の善である、と決定して深く信ずる。

観経は、韋提希だけに説かれたのではありません。法華経を中断して説かれたことは御存知でしょうが、法華経を聞いている人(聖道門の人)のために説かれたと善導大師が仰り、それを親鸞聖人もそのまま仰っているのです。



『教行信証』化土巻くらい読んだらどうですか。『観経疏』は読めないでしょうけど。
韋提希に定善をさせたと思っているのは、聖道門の解釈ですよ。



親鸞聖人が、獲信のために善を勧められた根拠も全くない、19願を勧められた根拠も全くない、親鸞聖人が19願についてはっきり仰ったのが、要門釈の結論

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。



(現代語訳)



以上のようなことから、 源信和尚の解釈をうかがうと、 往生要集の念仏証拠門の中に、 第十八願について、 四十八願の中の特別な願であるとあらわされている。 また 観無量寿経に説かれる定善・散善を修めるものについて、 きわめて罪が重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。 五濁の世のものは、 出家のものも在家のものも、 よく自分の能力を考えよということである。 よく知るがよい。

です。
浄土往生を願っている人に対して、「ただ弥陀を称せよ」なのです。「まず諸善を修せよ」ではありません。獲信のために定散二善をするなです。



もとの『往生要集』念仏証拠を見れば、それがよりはっきりします。

三には、四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく、「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」と。
四には、『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

源信僧都は、三が18願の説明、四が『観無量寿経』下下品についての説明です。

極重の悪人は、他の方便なし。

ところが親鸞聖人は源信僧都のお言葉を変えて仰っています。

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。

『高僧和讃』にも

極悪深重の衆生は 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ 浄土にうまるとのべたまふ

と親鸞聖人は仰っています。



もちろん『正信偈』には、

極重悪人唯称仏

と書いておられます。



以上を承けられて蓮如上人は『正信偈大意』に

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

極重の悪人には、定散二善は不要、19願は不要と善知識方が口を揃えて仰っています。



歴代の善知識方の仰せを無視できるほどに、あなたは偉くなったものですね。



真面目に根拠を読みなさい。保身のために念仏誹謗を続けて、因果の道理を信じたらどうですか。



善の勧めの話をしているのに、論点をすり替えてしか語れないところが、情けないと言っているのですよ。


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レイバン サングラス
2013/07/05 21:16

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