親鸞会法論惨敗の記録2〜飛雲より

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zoom RSS 「諸善には諸仏の勧めはない」との親鸞聖人のお言葉も知らないとは

<<   作成日時 : 2013/05/13 20:11   >>

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親鸞会が、教義批判にここまで弱い理由は何でしょうか。



結局のところ、”無二の善知識”と自分のことを呼ばせていた人物が、単なる無学であっただけのことです。かつて本願寺の勧学を黙らせた大沼師の真似をして、大沼教学を振り回して有頂天になっていましたが、大沼師の真意も理解できず、自己の欲望を満足させるために教えを曲げて、無茶苦茶な教義となっています。それを詭弁で誤魔化してきただけのことです。



真宗の超常識さえ間違っていても気が付かない”無二の善知識”では、正しい真宗教義の議論はできません。



O講師の主張は、”無二の善知識”の教えそのままですから、善知識方の根拠には極めて疎いです。

早く、観無量寿経には
釈迦如来が韋提希夫人に
善を勧めておられるのか。
おられないのか、
お答えください。

これについては、これまで「Kさん」が何度もコメントをされていましたが、O講師は理解できませんでした。それで解説が必要だった訳ですが、今まで紹介しなかった次のコメントは、駄目押しでした。

『選択本願念仏集』に

わたくしに問ひていはく、上輩の文のなかに、念仏のほかにまた捨家棄欲等の余行あり。中輩の文のなかに、また起立塔像等の余行あり。下輩の文のなかに、また菩提心等の余行あり。なんがゆゑぞただ念仏往生といふや。
答へていはく、善導和尚の『観念法門』にいはく、「またこの『経』(大経)の下巻の初めにのたまはく、〈仏(釈尊)、一切衆生の根性の不同を説きたまふに、上・中・下あり。
その根性に随ひて、仏、みなもつぱら無量寿仏の名を念ぜよと勧めたまふ。その人命終らんと欲する時、仏(阿弥陀仏)、聖衆とみづから来りて迎接したまひて、ことごとく往生を得しめたまふ〉」と。この釈の意によるに、三輩ともに念仏往生といふ。



問ひていはく、この釈いまだ前の難を遮せず。なんぞ余行を棄ててただ念仏といふや。
答へていはく、これに三の意あり。一には諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。



(中略)



一に、諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説くといふは、善導の『観経疏』(散善義)のなかに、「上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」といふ釈の意に准じて、しばらくこれを解せば、上輩のなかに菩提心等の余行を説くといへども、上の本願(第十八願)に望むるに、意ただ衆生をしてもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」といふ。

意味がお判りになられませんかね。現代語訳も付けておきます。

わたくしに問うていう。上輩の門の中に、念仏のほかにまた家を捨て欲を離れるなどの余行があり、中輩の文の中にもまた塔をたて仏像をつくるなどの余行があり、下輩の文の中にもまた菩提心などの余行がある。それにどういうわけでただ念仏往生というのか。
答えていう。善導和尚の《観念法門》に、
また、この経 (大経) の下巻の初めにいわれている。「釈迦仏が説かれる。『一切衆生の機根はまちまちで、上・中・下の三種がある。その機根に随って、わたしはみな無量寿仏のみ名をもっぱら称えることを勧める。その人が命終わろうとするときに、阿弥陀仏は聖衆と共にみずから来て迎えとり、ことごとく往生させてくださる。』」
といわれてある。この解釈の意によって三輩共に念仏往生というのである。



問うていう。この解釈ではまだ前の疑難をしりぞけていない。どうして余行を棄ててただ念仏というのか。
答えていう。これに三つの意がある。一つには諸行を廃して念仏に帰せしめるために諸行を説く。



(中略)



一つに、諸行を廃して念仏に帰せしめるために諸行を説くというのは、善導の《観経疏》の中に、
《観経》の初めから、定善・散善の両門の利益を説いてきたけれども、阿弥陀仏の本願に望めてみると、世尊の思し召しは、人々をして一向に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあるのである。
といわれた釈の意に準じて、しばらくこれを解釈すると、上輩の中に菩提心などの余行を説かれているけれども、上の本願に望めてみると、世尊の思し召しはただ衆生をして専ら阿弥陀仏の名号を称えさせるにある。ところが、本願の中に更に余行はない。三輩共に上の本願に依るから「一向に専ら無量寿仏を念ずる」と説かれているのである。

また以下のことも仰っています。

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。



(現代語訳)



また定・散の諸行を説くことは、念仏がその他の善に超え勝れていることを顕わすためである。もし定散の諸行がなかったならば、どうして念仏が特に秀でた行であることを顕わされようか。例えば《法華経》が、それ以前の説、同時の説、それ以後の説の三説の上に秀でているようなものである。もし三説がなかったならば、どうして《法華経》が第一に秀でていることを顕わされようか。ゆえに今、定散の諸行はこれを廃するために説き、念仏三昧はそれを立てるために説かれるのである。

と教えられていますが、御存知ないのですかね。



行巻に「念仏諸善比校対論」に

勧無勧対(念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない)

とありますが、意味はお判りですか。諸仏も釈尊も諸善を勧められていないと親鸞聖人が仰ったことは間違いと仰るのでしょう。あなたは何宗を信奉されているのですか?



定散二善を韋提希に勧められるために説かれたなど、浄土仏教を破壊する邪説であることくらい勉強されるべきでしょう。

浄土仏教に疎い”無二の善知識”の弟子はかわいそうです。立場上ブログを閉鎖もできず、過去のエントリーも削除できず、このことに触れないようにおとなしくブログを書き続けなくてはならないのです。


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