親鸞会法論惨敗の記録2〜飛雲より

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zoom RSS 化土往生は誰もできないと教えられた善知識が一人でもあれば教えて頂きたいものだ

<<   作成日時 : 2013/05/13 20:10   >>

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O講師は、釈尊が韋提希に諸善を勧められていないことを認めざるをえず、今度は後生の一大事に論点をずらして、以下のことを自信満々に書いてきました。

では化土往生ができる人が
一人でもあれば教えて
頂きたいものだ。

親鸞会の講師部員は、皆同じで、議論に負けると、関係のないことに論点をずらす。こうもレベルが低いのです。当ブログでは過去に、M野講師を誉め讃える1会員を名乗る人物が、同じことをして、恥の上塗りをしました。



信罪福心は自力であり、19願の勧めではない
実は、『正像末和讃』『浄土三経往生文類』も読んだことがありません、を追加
正常な思考とカルト思考

カルト思考の愚かさ



この辺りを読まれれば、同じパターンであることがお判り頂けると思います。口調も論調までも同じです。



さて、化土についてはこれまで何度も述べてきましたが、O講師のためにまとめておきたいと思います。



化土の根拠は、『大無量寿経』胎化段です。

もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつらず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。



(現代語訳)



さまざまな功徳を積んでその国に生れたいと願いながら疑いの心を持っているものがいて、無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生れたいと願うのであれば、これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。そのため、無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。

これを承けられて龍樹菩薩は『十住毘婆沙論』

もし人善根を種うるも、疑へばすなはち華開けず。
信心清浄なれば、華開けてすなはち仏を見たてまつる。



(現代語訳)



もし善根を積んで生れようとする 疑心の行者であれば華は開けず
本願を信ずる心の清浄な者は 華が開けて仏を見たてまつる。

と仰り、善導大師は『定善義』

因を修すること正念にして、疑を雑ふることを得ざれといふことを明かす。往生を得といへども、華に含まれていまだ出でず。あるいは辺界に生じ、あるいは宮胎に堕す。



(現代語訳)



因を治めるについて正念に修行して、疑いを雑まじえてはいけないことを明かす。もし疑いを雑じえるならば、たとい浄土に往生できても、華にふくまれて出られない。あるいは辺地に生まれ、あるいは胎生となる。

と解釈をされています。
化土について、明確に教えられた方が、源信僧都です。
親鸞聖人が『正信偈』

専雑の執心、浅深を判じて、報化二土まさしく弁立せり

と褒め讃えておられることくらいは、O講師でも知っているでしょう。
『往生要集』には、

問ふ。もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。



答ふ。
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。『双巻経』(大経・下)にのたまふがごとし、
「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。
仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。『清浄覚経』(平等覚経・三)に、この胎生をもつて中輩・下輩の人となせり。



(現代語訳)



問う。もし深心がなくて、疑念を生ずる者は、結局往生できないのであるか。



答える。
もし、全く信ぜず、往生の業を修めず、浄土を願い求めない者は、道理として往生するはずがない。しかしながら、もし仏智を疑うけれども、それでもやはり、かの浄土に生まれたいと願い、往生の業を修める者は、これもまた往生することができるのである。
『無量寿経』に説かれているとおりである。
もし、人々の中で、疑いの心を持ちながら、いろいろの功徳を修めて、かの国に生まれたいと願い、仏智、思いもおよばぬ智慧 (不思議智)、はかり知られぬ智慧、すべての者を救う智慧、ならびなくすぐれた智慧を知らず、いろいろの仏の智慧を疑って信ぜず、しかもなお罪の報を恐れ、おのが善根をたのむ心をもって善の本を修め、それによってかの国に生まれたいと願うものがあれば、これらの人は、かの国に生まれても宮殿の中にとどまり、五百年のあいだ、少しも仏を拝むことができず、教法を聞くことができず、菩薩・声聞などの聖衆を見ることもできない。それゆえ、これをたとえて胎生というのである。
仏の智慧を疑うのは、悪道に堕ちる罪に相当する。けれども、その願いにしたがって往生するというのは、仏の大悲の願力によるのである。『平等覚経』には、この胎生を中輩や下輩の人としている。

さて、この意味が判りますか?

もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。

親鸞聖人は『高僧和讃』源信讃

報の浄土の往生は
 おほからずとぞあらはせる
 化土にうまるる衆生をば
 すくなからずとをしへたり

とあることも知らないのでしょうか?



『浄土和讃』冠頭讃

誓願不思議をうたがひて
 御名を称する往生は
 宮殿のうちに五百歳
 むなしくすぐとぞときたまふ

とありますが、意味が判らなければ現代語訳も付けましょうか?



また『正像末和讃』誡疑讃23首に何が書かれてあるかも知らないのでしょうか?
23首の御和讃と現代語訳は



誡疑讃について教えてあげて下さい



にも書いておきましたので、そちらを御参照下さい。



『三経往生文類』

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといへども定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。しかれども如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。不可思議の誓願、疑惑する罪によりて難思議往生とは申さずと知るべきなり。

『御消息』

念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

必要ならば、もっと根拠を出しますがどうしますか?



O講師に逆に質問です。

では化土往生は誰もできないと教えられた善知識が
一人でもあれば教えて
頂きたいものだ。


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