親鸞会法論惨敗の記録2〜飛雲より

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zoom RSS 高森会長による体験至上の異安心の「機の深信」とは、この程度のもの

<<   作成日時 : 2013/05/13 20:07   >>

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高森会長による体験至上の異安心のO講師に、善知識方の化土往生のお言葉を根拠にあげても、通じないことがよく分った。 化土往生について仰った善知識方の根拠については、まともにコメントさえできない。そして同じ屁理屈を繰り返すだけ。なにより、善導大師、親鸞聖人が教えられた二種深信とは、まるで違う親鸞会の安心。



O講師は、相手の主張をねじ曲げ、何か適当なことをいえば誤魔化せると思っているところが、こうへい氏やM野氏ではないyo氏と同じですね。



少しは向上したらどうかとアドバイスをしたくなります。



O講師の以下の言葉

「『自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、
  昿劫より已来常に没し常に流転して、
  出離の縁有る事無し』
 と、深信す。」
   (機の深信)

のお言葉で、化土往生できるものが
いる筈がないことは歴然としている。

これは、親鸞会のレベルの低さを物語っています。念仏の話を諸善とすり替えることでしか対処ができないのです。



化土往生については、善知識方のお言葉を否定できませんでしたので、



誰一人化土往生できないというO講師の主張は邪義である



と結論がでました。最初から判っている当たり前の結論です。



さて、O講師は機の深信に話を逸らしてきましたが、その意味も違います。「Kさん」がコメントしておられます。

二種深信について無知のOさんのために解説しておきましょう。



善導大師の機の深信は、『散善義』

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

が有名ですが、もう一つ『往生礼讃』にもあります。

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。

善根薄少」とはありますが、「無善根」ではありません。善根が少ないので、自分の力では出離できないということであって、悪しかできないということではありません。



親鸞会では、救われたならば、

すべての人は無善造悪である
19願・20願は18願に入るために必ず通る道程

ということが、知らされると思い込んでいるようですが、それは親鸞聖人の教えを何も解っていない異安心の人の妄想です。



『往生礼讃』

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。

の善導大師のお言葉は、親鸞会の主張と矛盾しますので、親鸞会からすれば、善導大師は異安心になりますし、この善導大師のお言葉を引かれて信心を説明されている親鸞聖人も異安心になるのでしょう。



救われて知らされることについて、善導大師、親鸞聖人は、七深信で教えられています。



『愚禿鈔』に七深信についての簡単な説明があります。

七深信とは、
第一の深信は、「決定して自身を深信する」と、すなはちこれ自利の信心なり。
第二の深信は、「決定して乗彼願力を深信する」と、すなはちこれ利他の信海なり。
第三には、「決定して『観経』を深信す」と。
第四には、「決定して『弥陀経』を深信す」と。
第五には、「唯仏語を信じ決定して行による」と。
第六には、「この『経』(観経)によりて深信す」と。
第七には、「また深心の深信は決定して自心を建立せよ」となり。

最初の二つが二種深信です。二番目の法の深信を開いたものが、三番目から七番目までです。



三番目が、何度も紹介しています「欣慕浄土の善根」です。『観経』に説かれている定散二善は、聖道門の人に浄土を願い慕わせる善ということです。



少し長いですが、重要なところですので、『教行信証』信巻に、七深信で『散善義』から引かれている部分を挙げておきます。

深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。 一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。



また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。



また決定して、『弥陀経』のなかに、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生ずることを得と深信するなり。



また深信するもの、仰ぎ願はくは一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行によりて、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふところをばすなはち去つ。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。



また一切の行者、ただよくこの『経』(観経)によりて行を深信するは、かならず衆生を誤らざるなり。なにをもつてのゆゑに、仏はこれ満足大悲の人なるがゆゑに、実語なるがゆゑに。仏を除きて以還は、智行いまだ満たず。それ学地にありて、正習の二障ありていまだ除こらざるによつて、果願いまだ円かならず。これらの凡聖は、たとひ諸仏の教意を測量すれども、いまだ決了することあたはず。平章することありといへども、かならずすべからく仏証を請うて定とすべきなり。もし仏意に称へば、すなはち印可して〈如是如是〉とのたまふ。もし仏意に可はざれば、すなはち〈なんだちが所説この義不如是〉とのたまふ。印せざるはすなはち無記・無利・無益の語に同じ。仏の印可したまふは、すなはち仏の正教に随順す。もし仏の所有の言説は、すなはちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多もしは少、すべて菩薩・人・天等を問はず、その是非を定めんや。もし仏の所説は、すなはちこれ了教なり。菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づくるなり、知るべし。このゆゑに今の時、仰いで一切有縁の往生人等を勧む。ただ仏語を深信して専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教を信用して、もつて疑碍をなし、惑ひを抱いて、みづから迷ひて往生の大益を廃失すべからざれと。{乃至}



釈迦一切の凡夫を指勧して、この一身を尽して専念専修して、捨命以後、さだめてかの国に生るれば、すなはち十方諸仏ことごとくみな同じく讃め、同じく勧め、同じく証したまふ。



なにをもつてのゆゑに、同体の大悲なるがゆゑに。一仏の所化は、すなはちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなはちこれ一仏の所化なり。すなはち『弥陀経』のなかに説かく、〈釈迦極楽の種々の荘厳を讃嘆したまふ。また一切の凡夫を勧めて一日七日、一心に弥陀の名号を専念せしめて、さだめて往生を得しめたまふ〉と。



次下の文にのたまはく、〈十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦よく五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪・無信の盛りなるときにおいて、弥陀の名号を指讃して衆生を勧励せしめて、称念すればかならず往生を得と讃じたまふ〉と、すなはちその証なり。また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんをおそれて、すなはちともに同心同時におのおの舌相を出して、あまねく三千世界に覆ひて誠実の言を説きたまはく、〈なんだち衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問はず、ただよく上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念して、さだめて往生を得ること、かならず疑なきなり〉と。このゆゑに一仏の所説をば、すなはち一切仏同じくその事を証誠したまふなり。これを人について信を立つと名づくるなり。{乃至}
またこの正のなかについてまた二種あり。一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。もし礼・誦等によらば、すなはち名づけて助業とす。この正・助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。{乃至}
すべて疎雑の行と名づくるなり。ゆゑに深心と名づく。

古文が読めないでしょうが、現代語訳は自分で調べておいてください。それくらいの勉強を自分でしなければ、高校生に笑われますよ。



さて五番目は、

仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふところをばすなはち去つ。

とありますように、教えられるとおりに、捨てよと言われたら捨てる、行じなさいと言われたら行ずる、近付くなといわれたら近付かない、なのです。



諸仏の勧められていることは、念仏です。念仏が称えられないなどとアホなことを公言しているから、皆から見下されているのです。往生の為には諸善を捨てよ、が諸仏の仰せです。



一方親鸞会の教えていることは、

仏の捨てしめたまふをばすなはち拾わせ、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ぜず。仏の去らしめたまふところをばすなはち近付く。

です。
六番目、七番目も含めて善についての扱いがまるっきり反対です。19願・20願は、18願への道程ということではありません。「捨てしめたまふ」ものが何かも知らないでは、御粗末です。



救われて知らされることは、

自分の力では、出離して仏になるような善はできない。(悪しかできないということではない)
諸善は聖道門の人を浄土門に誘引するためのものであり、浄土門に入ったならば18願で救われるために捨てさるべきもの。

です。



異安心の高森会長に教えてあげて下さいね、念仏誹謗のOさん。

高森会長による体験至上主義で作られた教義と安心での二種深信とは、この程度のもの。



O講師の

残念なことに善導大師、親鸞聖人の
「機の深信」のお言葉でさえ、
この程度の意味でしか
理解していないのだから、
後はおって知るべしであろう。

そのままお返しします。



親鸞会は、真宗教義の基礎の基礎さえ知らないのですね、と元会員の方がしみじみといわれていました。全くその通りです。それでいて自分よりも親鸞聖人の教えに詳しいものはいないと思っている”無二の善知識”と、その弟子たちは、喜劇役者ですか。


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