親鸞会法論惨敗の記録2〜飛雲より

アクセスカウンタ

zoom RSS 五逆・十悪の罪人、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる

<<   作成日時 : 2013/05/13 20:05   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

親鸞会で教えていることは、根拠のない独自の理論でしかありません。獲信のための善の勧めは、その典型です。『観無量寿経』で、極重の悪人に対して何を勧められているのかさえ判っていません。創作アニメの「王舎城の悲劇」が『観無量寿経』の内容と錯覚しているのでしょうが、実にレベルの低い話です。



『観無量寿経』の下品下生

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。



(現代語訳)



続いて釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。
「 次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい>と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。

親鸞聖人は『唯信鈔文意』に解説をなされています。

「汝若不能念」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。



「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」(観経)といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。



(現代語訳)



『観無量寿経』に「汝若不能念」と説かれているのは、五逆・十悪の罪を犯した人や、私利私欲のために教えを説いたものが、病の苦しみに阻まれて、心に阿弥陀仏を念じることができなければ、ただ口に「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。これは称名念仏を本願の行としてお誓いになっていることをあらわそうとされているのである。続いて「応称無量寿仏」と説かれているのは、この意味である。「応称」は、称えよということである。



『観無量寿経』に「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」と説かれているのは、五逆の罪を犯した人はその身に八十億劫の十倍の罪をもつことになるので、十回「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。一回の念仏で八十億劫の十倍の罪を消すことができないのではないけれども、五逆の罪がどれほど重いのかを人々に知らせるために、このようにいわれているのである。「十念」というのは、ただ口に念仏を十回称えよというのである。このようなわけで、選択本願に「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」と誓われていると『往生礼讃』にいわれているのは、阿弥陀仏の本願は、念仏するのがたとえ十回ほどであっても、みな浄土に往生することができることを知らせようと善導大師がお思いになって、「十声」といわれているのである。「念」と「声」とは同じ意味であると心得なさいというのである。「念」を離れた「声」はなく、「声」を離れた「念」はないということである。

上品上生から中品下生までは釈尊は三福(行福・戒福・世福)を勧められています。『観無量寿経』を読めば明らかなことです。
一方で、下品上生から下品下生までは、諸善を勧められていません。悪人には善ができないからです。極重の悪人に対して釈尊は、念仏1つを勧められているのです。臨終の悪人でもできる易行が念仏です。どんな極重の悪人でも救うためには、易行でなければなりません。それが称名念仏なのです。



度々紹介していますが、これを『往生要集』には、

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

と教えられています。当然なことを源信僧都が仰ったに過ぎません。念仏以外に、善という他の方便は勧められていません。



それなのに、悪人には念仏もできないとO講師(もしくは後ろにいる人物)が書いているのは、阿弥陀仏の本願を根底から覆すとんでもない邪義です。真宗でもなければ、浄土仏教でもなく、仏教でさえありません。いくら無知であるとしても、本気でこんなことを言っている人物は、真実信心を獲ていない異安心であることに疑いの余地はありません。



以上のことを解説されながら全人類が五逆罪を造っているということではないと仰った法然上人のお言葉を紹介しておきます。



『勅伝』「太胡太郎実秀が妻室のもとへつかはす御返事」

一々の願の、終わりに、もし爾らずば、正覚を土らじと、誓い給へり。然るに、阿弥陀仏、佛になり給いてより、この方、既に十劫を、へ給へり。当に知るべし、誓願虚しからず。然れば、衆生の稱念する者、一人も、虚しからず、往生することを得。もし、しからずば、たれか、佛になり給へることを信ずべき。三寶滅盡の、時なりと、雖も、一念すれば、尚往生す。五逆深重の、人なりと、雖も、十念すれば、往生す。いかに況や、三宝の世に生まれて、五逆を、作らざる我ら、弥陀の名号を、称へんに、往生疑うべからず。今、此の願に、遭える事は、実に、これ、朧気の縁に非ず。よくよく、悦び、思し召すべし。例え又、遭うといえども、もし信ぜざれば、遭わざるが如し。今深く、此の願を信ぜさせ給へり。往生疑い思し召すべからず。必ず必ず、ふた心なく、よくよくお念仏候て、この度生死を、離れ、極楽に、生まれさせ給うべし。

善知識方の仰せと真逆の主張に、耳を傾ける価値は全くありません。


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
五逆・十悪の罪人、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる 親鸞会法論惨敗の記録2〜飛雲より/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる