親鸞会法論惨敗の記録2〜飛雲より

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zoom RSS 「念仏は修しやすし、諸行は修しがたし」も知らないお粗末親鸞会

<<   作成日時 : 2013/05/13 20:03   >>

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極重の悪人は、自力念仏を称えることもできないと信じがたい邪義を親鸞会では唱えています。



諸善と念仏との関係について、法然上人は詳しく教えられました。その中で難易という観点で以下のように仰っています。



『選択本願念仏集』

次に難易の義とは、念仏は修しやすし、諸行は修しがたし。
このゆゑに『往生礼讃』にいはく、
「問ひていはく、なんがゆゑぞ、観をなさしめずしてただちにもつぱら名字を称せしむるは、なんの意かあるや。
答へていはく、すなはち衆生障重く、境は細く心は粗し。識颺り神飛びて、観成就しがたきによるなり。ここをもつて大聖(釈尊)悲憐して、ただちにもつ
ぱら名字を称せよと勧めたまふ。まさしく称名の易きによるがゆゑに、相続してすなはち生ず」と。[以上]
また『往生要集』(下)に、「問ひていはく、一切の善業おのおの利益あり、おのおの往生を得。なんがゆゑぞただ念仏一門を勧むるや。
答へていはく、いま念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行を遮せんとにはあらず。ただこれ男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを



修するに難からず、乃至、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にしかざればなり」と。[以上]
ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。
しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。



(現代語訳)



次に難易の義とは、念仏は修め易く諸行は修め難い。
それゆえ《往生礼讃》にいわれてある。
問うていう。どうして観察の行を勧めないで、ただもっぱら名号を称えさせられるのか。これにはいかなる意味があるのか。
答えていう。それは、衆生が障りが重く、観ずるところがこまやかであるのに、心はあらく、想いが乱れ飛んで、観察の行が成就しがたいからである。そう
いうわけで、釈尊はこれを哀れみくださって、ただもっぱら名号を称えることを勧められたのである。これはまさしく称名の行がたやすいから、これを相続
して往生することができるのである。
また《往生要集》に、
問うていう。すべての善業にはそれぞれ利益があり、いずれも往生することができるのに、どういうわけで、ただ念仏の一門だけを勧めるのか。
答えていう。いま念仏を勧めることは、その他の種々のすぐれた行をさえぎるのではない。ただ男でも女でも、身分の高いものでも低いものでも、行住座臥
の区別なく、時・処やいろいろの場合を論ぜず、これを修めるのにむずかしくなく、そして臨終までも往生を願い求めるのに、その便宜を得ることは、念仏
に及ぶものはないからである。
といわれている。
故に知られる。念仏は易いからすべての根機に通じ、諸行は難しいからいろいろの根機に通じないのである。
そういうわけであるから、すべての衆生を平等に往生させるために、難しいのを捨て、易いのを取って本願とせられたのであろう。

親鸞聖人も『教行信証』行巻に念仏諸善比挍対論をされて、最初に

難易対

とあります。

諸善は難行であり、念仏は易行である。

ということです。
念仏が凡夫にできない難行だなどと仰った方は、ある筈もありません。



また19願の諸善と20願の自力念仏については、親鸞聖人は『教行信証』化土巻でそれぞれ教えられました。
要門釈では最初に

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。



(現代語訳)



さて、五濁の世の人々、煩悩に汚れた人々が、九十五種のよこしまな教えを今離れて、仏教のさまざまな法門に入ったといっても、教えにかなった真実のものははなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。このようなわけで、釈尊は、さまざまな善を修めて浄土に往生する福徳蔵と呼ばれる教えを説いて多くの人々を誘い入れ、阿弥陀仏は、そのもととなる誓願をおこして広く迷いの人々を導いてくださるのである。すなわち、すでに慈悲の心からおこしてくださった第十九願がある。

と、『観無量寿経』の定散二善、19願は聖道門の人を浄土門に誘引する願であると仰り、

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。



(現代語訳)



以上のようなことから、源信和尚の解釈をうかがうと、『往生要集』の念仏証拠門の中に、第十八願について、四十八願の中の特別な願であるとあらわされている。また『観無量寿経』に説かれる定善・散善を修めるものについて、きわめて罪が重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。五濁の世のものは、出家のものも在家のものも、よく自分の能力を考えよということである。よく知るがよい。

と、「濁世の道俗」は定散二善、19願が実践できるような能力はないから、易行である念仏一行を勧められた結論となっています。



一方、真門釈は、

それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。真門の方便につきて、善本あり徳本あり。また定専心あり、また散専心あり、また定散雑心あり。雑心とは、大小・凡聖・一切善悪、おのおの助正間雑の心をもつて名号を称念す。まことに教は頓にして根は漸機なり。行は専にして心は間雑す。ゆゑに雑心といふなり。定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。善本とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。ゆゑに善本といふなり。徳本とは如来の徳号なり。この徳号は一声称念するに、至徳成満し衆禍みな転ず、十方三世の徳号の本なり。ゆゑに徳本といふなり。しかればすなはち釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまふ。阿弥陀如来はもと果遂の誓[この果遂の願とは二十願なり]を発して、諸有の群生海を悲引したまへり。



(現代語訳)



この五濁の世の出家のものも在家のものも、速やかにこの上ない功徳をまどかにそなえた真門に入って、難思往生を願うべきである。真門の方便には、行に善本と徳本の名がある。また定善の専心があり、散善の専心があり、そして定善・散善の雑心がある。雑心とは、大乗・小乗の聖者や凡夫、すべての善人や悪人がそれぞれに、正定業と助業の区別を知らず、本願を疑う自力の心で名号を称えることである。まことに、名号はこの上ない功徳をまどかにそなえ、ただちにさとりに到る他力真実の法であるが、これを修めるものが、自力を離れることができず、速やかにさとりに到ることのできない衆生なのである。行は専すなわち念仏一行であるが、これを修める心は雑すなわち本願を疑う自力の心である。だから雑心というのである。定善の専心・散善の専心とは、罪を恐れ自分の善をあてにする心で本願力を願い求めるのであり、これを自力の専心というのである。善本とは阿弥陀仏の名号をいう。この名号は、あらゆる善をまどかにそなえているのであり、すべての善い行いの本であるから、善本というのである。徳本とは阿弥陀仏の名号をいう。この名号は、一声称えるときこの上ない徳がその身に満ちてあらゆる罪がみな功徳に転じるのであり、過去・現在・未来のすべての仏がたにそなわる徳の名の本であるから、徳本というのである。
そこで、釈尊は、念仏を称える功徳によって、すべての五濁の世のものを導かれ、阿弥陀仏は、そのもととなる果遂の誓いをおこして、あらゆる迷いの人々を他力念仏の法に引き入れてくださるのである。すなわち、慈悲の心からおこしてくださった第二十願がある。

ですが、最初に20願を勧めておられます。19願を勧められたお言葉は親鸞聖人の御著書のどこを探しても全くありません。できないことを勧められる筈がないからです。しかし、20願を勧められたお言葉が、ここにあります。そして、「大小・凡聖・一切善悪」が自力念仏をしていることを仰っています。
その結論として、

まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。
(中略)
 悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。



(現代語訳)



いま、まことに知ることができた。もっぱら念仏しても、自力の心で励むものは大きな喜びの心を得ることができない。
(中略)
 悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生れ変り死に変りし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海にはいることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることがない。すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのである。

と仰っています。最初は20願を勧められて、最後は20願では真実信心は獲られず、報土往生できないことを仰っています。要門19願と比較すれば、余程真実に近いので、一端は真門20願を勧められていますが、最後は誡められて弘願18願に帰することをこの後の三願転入の文で結論となされたのです。



このように19願の諸善と20願の自力念仏の扱いは、大きく異なっているのです。19願の諸善はできないからするな、20願の自力念仏は真実に近いから一端は勧められても最後は、化土往生しかできない行信であるから廃すべきものとされました。
20願自力念仏が誰もできないもの言っているのは、外道の教えです。



親鸞会は、教団名から「浄土真宗」と「親鸞」を早く外して下さい。


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